沢庵宗彭
生没 1573(天正元)-1645(正保2)
生地 但馬国
実父 田公(秋葉・秋庭)綱典?田公澄正?田公真典?
実母 牧田又之丞女?日下部光政女?
略伝
幼時に出家し、1594(文禄3)年に京都大徳寺に入って修行を積む。
1599(慶長4)年、石田三成が、加藤清正らによる襲撃事件の後に近江佐和山城に隠退すると、その城下に移る。三成が翌年の関ヶ原の戦いに敗れて処刑されると、三成の首を引き取り、ひそかに大徳寺に葬ったという。
1609(慶長14)年、大徳寺の住持となるがすぐにこれを辞して、故郷但馬出石に隠棲。しかし、幕府による社寺への介入が進むとこれに反発し、1627(寛永4)年、後水尾天皇が幕府の許可を得ずに紫衣着用の勅許を発したことを幕府が咎め、これを無効とすべく朝廷に圧力をかけるとこれに激しく抗議する。そのため、1629(寛永6)年、幕府により出羽上山へ流された。
1632(寛永9)年の赦免後は出石に戻るが、後に江戸に出て、3代将軍徳川家光が品川に建立した東海寺の住持となる。家光は東海寺にしばしば通ったといわれ、このとき出された漬物を沢庵が「蓄え漬」と称したことが「たくあん漬」の語源となったという。
なお、宮本武蔵との交流があったといわれるが、詳細は定かではない。
配役
| 嵐亀三郎(51) |
刀を抜いて(1929・日活) |
| 児島武彦(41) |
刀を抜いて(1929・マキノ) |
| 6嵐徳三郎(53) |
宮本武蔵(1936・新興) |
| 河部五郎①(49) |
宮本武蔵(1937・日活) |
| 上田吉二郎(33) |
宮本武蔵 風の巻(1937・東宝) |
| 横山文彦(39) |
決戦般若坂(1942・映画) |
| 河部五郎②(54) |
宮本武蔵 一乗寺決闘(1942・日活) |
| 香川良介①(47) |
二刀流開眼(1943・大映) |
| 香川良介②(47) |
宮本武蔵 決闘般若坂(1943・大映) |
| 横山エンタツ(56) |
腰抜け巌流島(1952・大映) |
| 2尾上九朗右衛門①(42) |
宮本武蔵(1954・東宝) |
| 2尾上九朗右衛門②(43) |
続宮本武蔵 一乗寺の決斗(1955・東宝) |
| 明石 潮(61) |
柳生旅日記 天地夢想剣(1959・松竹) |
| 松本克平(56) |
侍(宮本武蔵 一乗寺の決闘)(1961・CX) |
| 多々良純(34) |
宮本武蔵(1961・CX) |
| 三国連太郎①(38) |
宮本武蔵(1961・東映) |
| 三国連太郎②(39) |
宮本武蔵 般若坂の決斗(1962・東映) |
| 西村 晃(40) |
九ちゃん刀を抜いて(1963・映画) |
| 山形 勲(50) |
宮本武蔵(1965・NTV) |
| 三国連太郎③(42) |
宮本武蔵 巌流島の決斗(1965・東映) |
| 島田正吾(63) |
日本剣客伝(柳生十兵衛)(1968・NET) |
| 松村達雄(56) |
宮本武蔵(1970・NET) |
| 三島雅夫(64) |
柳生十兵衛(1970・CX) |
| 田村高廣①(43) |
春の坂道(1971・NHK) |
| 笠 智衆(69) |
宮本武蔵(1973・松竹) |
| 有島一郎(58) |
運命峠(1974・KTV) |
| 田村高廣②(47) |
宮本武蔵(1975・CX) |
| 小池朝雄(51) |
柳生新陰流(1982・TX) |
| 津川雅彦(44) |
宮本武蔵(1984・NHK) |
| 田村高廣③(62) |
宮本武蔵(1990・TX) |
| 内藤武敏(66) |
徳川無頼帳(1992・TX) |
| 片桐竜次(51) |
くノ一忍法帖 柳生外伝(1998・映画) |
| 西田敏行(54) |
宮本武蔵(2001・TX) |
| 渡瀬恒彦(59) |
武蔵 MUSASHI(2003・NHK) |
| 神山 繁(77) |
天下騒乱 徳川三代の陰謀(2006・TX) |
| 香川照之(49) |
宮本武蔵(2014・EX) |
沢彦宗恩
略伝
京都妙心寺などで修行を積み、後に平手政秀に請われて幼少の織田信長の師となる。信長が長じた後も、信長が手中に収めた美濃井ノ口の岐阜への改名を進言したとされるなど、一定の影響力を持っていたという。
その後、妙心寺住持などを務めた。
配役
| 志水辰三郎(75) |
国盗り物語(1973・NHK) |
| でんでん①(64) |
信長協奏曲(2014・CX) |
| でんでん②(66) |
信長協奏曲(2016・東宝) |
詫摩治通
略伝
今和泉島津家の家臣。
島津忠剛などに仕えた。
配役
ダグラス・マッカーサー
生没 1880(明治13)-1964(昭和39)
生地 米国
実父 Arthur MacArthur, Jr.
実母 Mary Pinkney Hardy MacArthur
略伝
米国陸軍に入って第一次世界大戦に従軍し、1930(昭和5)年には史上最年少で参謀総長に就任。1935(昭和10)年、参謀総長を退任してフィリピン軍の軍事顧問に転じ、フィリピン軍元帥の称号を与えられるが、1941(昭和16)年7月、米国極東軍司令官に就任して現場復帰する。その後も引き続きフィリピンにあったが、同年12月、日本軍の猛攻に遭ってフィリピンの放棄を余儀なくされた(なお、日本の敗色が濃厚となった1944[昭和19]年10月になってようやくフィリピンに再上陸している。)。
終戦後の1945(昭和20)年8月30日に来日し、以後、GHQ総司令官として戦後の日本統治にあたり、日本国憲法の制定をはじめ、さまざまな社会改革や民主化政策を実行。1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で国連軍総司令官に任命され、一時は朝鮮半島の大部分を占領する戦果を挙げるものの、中国の参戦によって戦線が膠着し、トルーマン大統領に中国東北部(旧満州)への核攻撃も含めた空爆を提言するも容れられず、翌年4月に更迭され、帰国した。
配役
| アンドリュー・ヒューズ①(51) |
大東亜戦争と国際裁判(1959・新東宝) |
| アンドリュー・ヒューズ②(52) |
皇室と戦争とわが民族(1960・新東宝) |
| アンドリュー・ヒューズ③(60) |
日本一の裏切り男(1968・映画) |
| ディック・ニーヴィアス① |
日本の戦後(サンルームの2時間)(1977・NHK) |
| セシル・ロビンス① |
日本の戦後(一歩退却二歩前進)(1977・NHK) |
| セシル・ロビンス② |
日本の戦後(くにのあゆみ)(1977・NHK) |
| ディック・ネビアス② |
日本の戦後(退陣の朝)(1977・NHK) |
| ディック・ネビアス③ |
日本の戦後(審判の日)(1977・NHK) |
| ドナルド・ノード |
日本の戦後(老兵は死なず)(1977・NHK) |
| リック・ジェイソン(57) |
小説吉田学校(1983・東宝) |
| ウィリアム・ロス |
吉田茂(1983・KTV) |
| ディック・ネビアス③ |
山河燃ゆ(1984・NHK) |
| ティモシー・ハリス(63) |
白洲次郎(2009・NHK) |
| ジョン・サヴェージ(62) |
日輪の遺産(2011・角川) |
| デヴィッド・モース(59) |
負けて、勝つ(2012・NHK) |
| マイケル・アイアンサイド(66) |
東京裁判(2016・NHK) |
| ダニー・ウィン |
いだてん 東京オリムピック噺(2019・NHK) |
| チャールズ・グラバー(58) |
アメリカに負けなかった男 バカヤロー総理 吉田茂(2020・TX) |
多 劫
生没 1553(天文22)-1618(元和4)
生地 尾張国
略伝
徳川家康の異父妹。
久松俊勝の次女。はじめ松平忠正、次いでその弟松平忠吉に嫁ぐがいずれも死別。1584(天正12)年に保科正直に嫁いだが、1601(慶長6)年に先立たれた。
配役
竹
生没 1705(宝永2)-1772(安永元)
生地 山城国
家系
実母
略伝
島津継豊の正室。
徳川綱吉の側室となっていた叔母大典侍に望まれて綱吉の養女となる。
1708(宝永5)年、会津藩世子松平正邦と婚約するが、正邦が早世したために実現せず、1710(宝永7)年には有栖川宮正仁親王との婚約が決まったが、1716(享保元)年の親王の死により破談となる。
同年、徳川吉宗が8代将軍に就任すると、正室に先立たれていた吉宗にその後添えに望まれるが、系図上とはいえ大叔母との婚姻になるという理由で天英院らの反対に遭って頓挫。その後、改めて吉宗の養女となり、1729(享保14)年にようやく薩摩藩主島津継豊の後添えに迎えられた。
1760(宝暦10)年、継豊の死により落飾して浄岸院を称した。
配役
多気致幹
略伝
常陸の豪族。
水戸城を根拠として11世紀後半には一大勢力をなしていたという。
配役
竹崎季長
生没 1246(寛元4)-?
生地 肥後国
家系
実父
実母
別称
略伝
鎌倉幕府の御家人。
1274(文永9)年、元軍が日本に襲来した際、少弐景資の軍勢に加わって奮戦。一番駆けの勲章を引っ提げて戦後の恩賞を期待するも恩賞が出ず(事務的な手違いによるものともいう)、鎌倉に上って御恩奉行安達泰盛に直訴してようやく肥後海東の地頭職を得る。1281(弘安4)年の再来襲の際も兵を率いて参陣し、河野通有らと元軍に夜襲をかける活躍をみせた。
戦後、絵師に命じて「蒙古襲来絵詞」を描かせ、これは元寇の様子を知る貴重な史料として現在に伝わっている。
配役
竹内久六
略伝
久松俊勝の家臣。
俊勝に再嫁した大の意を受け、1547(天文16)年より織田家の人質となっていた竹千代(徳川家康)のもとへ幾度か赴いたという。
配役
| 高橋悦史(29) |
徳川家康(1964・NET) 水野信近と同一人物 |
| 田代隆秀(33) |
徳川家康(1983・NHK) 水野信近と同一人物 |
竹俣慶綱
生没 1524(大永4)-1582(天正10)
生地
家系
実父 竹俣為綱
実母
別称
略伝
上杉家の家臣。
1578(天正6)年の上杉謙信没後に生じた上杉景勝と上杉景虎との家督争いでは景勝方に属し、景勝と武田勝頼との和睦交渉にあたる。
その後、織田勢の進撃が迫る越中魚津城に入り、織田勢と交戦を重ねるが、織田信長が京都本能寺に横死した翌日の1582(天正10)年6月3日、柴田勝家らの猛攻に遭って落城し、自害して果てた。
配役
武林唯七
生没 1672(寛文12)-1703(元禄16)
生地 播磨国?
家系
実父 渡辺平右衛門
実母 北川久兵衛女
別称 武林隆重
略伝
赤穂四十七士の一。
播磨赤穂藩(浅野家)に仕え、中小姓などを務める。
1701(元禄14)年、主君浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に刃傷に及んだ際には江戸にあり、その後、堀部安兵衛とともに吉良への早急な仇討ちを強硬に主張し、急進派とみなされた。
1702(元禄15)年12月の吉良邸への討入りに際しては表門隊に属し、明け方になって台所の物置から飛び出した敵を間十次郎と三村次郎右衛門が捕らえ、なお一人が抵抗したので斬り倒したところ、それが吉良であったという。その功により、討入り後に入った泉岳寺の内匠頭の墓前では、十次郎が一番焼香で、隆重が二番焼香の栄に浴したとされている。その後、毛利甲斐守に預けられ、翌1703(元禄16)年2月、幕府の命により毛利邸にて切腹した。
なお、兄半右衛門は、父母が病床にあってその看護に追われていたため義盟には加わることができず、周囲から不忠義者の誹りを受けたという。しかし、父母をよろしく頼むという唯七自身の書付や、半右衛門の友人だった十次郎の慰めの手紙が残っているほか、大石内蔵助からの書状には兄が孝、弟が忠をなしているから立派だという内容が記されていたという。
配役
| 嵐 橘楽(44) |
忠臣蔵七人いろは(1918・日活) |
| 大谷鬼若①(43) |
実録忠臣蔵(1921・日活) |
| 市川芦若 |
実録忠臣蔵(1922・牧野) |
| 大谷鬼若②(46) |
赤垣源蔵(1924・日活) |
| 菊池大輔 |
義士と侠客(1925・マキノ) |
| 尾上多見太郎①(34) |
実録忠臣蔵(1926・映画) |
| 尾上多見太郎②(35) |
増補改訂忠臣蔵(1927・映画) |
| 本田繁一郎 |
血煙高田の馬場(1928・映画) |
| 武井龍三①(23) |
忠魂義烈 実録忠臣蔵(1928・映画) |
| 中山介三郎 |
赤穂浪士 第一篇 堀田隼人の巻(1929・日活) |
| 明石緑郎(30) |
武林唯七(1929・帝キネ) |
| 嵐徳太郎(18) |
奴浪人(1929・映画) |
| 清川荘司(27) |
元禄快挙 大忠臣蔵(1930・日活) |
| 武井龍三②(26) |
江戸へ帰った退屈男(1931・右太プロ) |
| 河合菊三郎 |
赤穂浪士(1932・河合) |
| 阪東要二郎 |
お好み安兵衛 花婿の巻(1932・阪妻プロ) |
| 頭山桂之助(31) |
口笛を吹く武士(1932・映画) |
| 長島武夫(25) |
忠臣蔵(1932・映画) |
| 武井龍三③(27) |
風雲元禄史(1932・右太プロ) |
| 沢村武之弼 |
少年忠臣蔵(1933・映画) |
| 桜井 勇(25) |
大高源吾(1934・映画) |
| 中田弘二(25) |
忠臣蔵(1934・映画) |
| 鳥居 正 |
小平太何処へ行く(1936・松竹) |
| 賀川 清(34) |
堀部安兵衛(1936・日活) |
| 原 健作(32) |
浅野内匠頭(1937・千恵プロ) |
| 楠栄三郎 |
忠臣蔵(1938・日活) |
| 鉄 一郎 |
忠臣蔵(1939・映画) |
| 丸山定夫(38) |
浪人吹雪(1939・映画) |
| 市川正二郎(28) |
討入前夜(1941・日活) |
| 市川莚司①(30) |
元禄忠臣蔵(1941・松竹) |
| 市川莚司②(31) |
元禄忠臣蔵 後篇(1942・松竹) |
| 由利道夫 |
赤穂義士(1954・東映) |
| 大坂志郎①(34) |
忠臣蔵(1954・映画) |
| 田中謙三 |
元禄名槍伝 豪快一代男(1955・松竹) |
| 大坂志郎②(35) |
浪人吹雪(1955・映画) |
| 月形哲之介(30) |
赤穂浪士(1956・東映) |
| 恩田清二郎(49) |
忠臣蔵の人々(1956・KR) |
| 東宮秀樹(30) |
赤穂義士(1957・映画) |
| 石井龍一(23) |
忠臣蔵(1958・大映) |
| 2実川延二郎(37) |
忠臣蔵 暁の陣太鼓(1958・松竹) |
| 若山富三郎(30) |
血槍無双(1959・映画) |
| 五味勝之介(26) |
忠臣蔵(1959・東映) |
| 尾上鯉之助(28) |
赤穂浪士(1961・東映) |
| 藤木 悠(31) |
忠臣蔵(1962・東宝) |
| 戸浦六宏(34) |
赤穂浪士(1964・NHK) |
| 7坂東簑助(39) |
清水一角(1968・NHK) |
| 嵐 圭史(28) |
日本剣客伝(堀部安兵衛)(1968・NET) |
| 山田吾一(36) |
あゝ忠臣蔵(1969・KTV) |
| 砂塚秀夫(39) |
大忠臣蔵(1971・NET) |
| 美濃部厚(26) |
元禄太平記(1975・NHK) |
| 畑中猛重(30) |
赤穂城断絶(1978・東映) |
| 成瀬 正(29) |
赤穂浪士(1979・ANB) |
| 妹尾和夫(30) |
江戸の用心棒(1981・CX) |
| 竹本和正(30) |
峠の群像(1982・NHK) |
| 野上祐二 |
忠臣蔵(1985・NTV) |
| 伊庭 剛(32) |
必殺忠臣蔵(1987・ABC) |
| 甲斐道夫(23) |
大忠臣蔵(1989・TX) |
| 我王銀次(31) |
忠臣蔵(1990・TBS) |
| 三上真一郎(51) |
大石内蔵助 冬の決戦(1991・NHK) |
| 勝野 洋(42) |
忠臣蔵(1991・CX) |
| 西村 譲(34) |
四十七人の刺客(1994・東宝) |
| 三浦浩一(43) |
忠臣蔵(1996・CX) |
| 碇 浩二(34) |
元禄繚乱(1999・NHK) |
| 川端竜太(28) |
忠臣蔵 1/47(2001・CX) |
| 関 貴昭(34) |
忠臣蔵 決断の時(2003・TX) |
| 内藤和也(37) |
最後の忠臣蔵(2004・NHK) |
| 山崎博之 |
忠臣蔵 瑤泉院の陰謀(2007・TX) |
| 丹羽貞仁(41) |
忠臣蔵 その男、大石内蔵助(2010・EX) |
| 橋本良亮(26) |
決算!忠臣蔵(2019・松竹) |
竹村幸之進
生没 1845(弘化2)-1877(明治10)
生地 陸奥国
家系
実父 竹村助兵衛
実母
別称 竹村俊秀
略伝
会津藩校日新館では秀才としてその名を知られる。
会津藩(松平家)に仕え、1868(明治元)年8月、新政府軍が会津に侵攻すると、若松城での籠城戦に加わり、会津藩の降伏後は、その移封先陸奥斗南に移住。後に青森県に出仕するが、ほどなくして辞職して上京する。
東京では同郷の永岡敬次郎のもとに身を寄せ、やがて永岡と同心して挙兵を決意。1876(明治9)年10月29日、事が露見して永岡らが東京思案橋で捕縛された際には、永岡の意を受けて前原一誠と面会すべく萩へ赴いていたために難を逃れたが、翌日、帰京したところを逮捕され、翌年2月に処刑された。
配役
東 武志(35)
笹原尚季(9) |
八重の桜(2013・NHK) |
田坂全慶
生没 1502(文亀2)-1547(天文16)
生地
家系
実父
実母
別称
略伝
沼田小早川家の家臣。
代々沼田小早川家の重臣を務めた家柄だったが、毛利元就の子隆景が主君小早川繁平の養子に入ることに反対し、正式に隆景が繁平の養子となって小早川家を相続した後、殺害された。
配役
多 子
生没 1140(保延6)-1201(建仁元)
生地
実父 徳大寺公能
実母 豪子(藤原俊忠女)
別称
略伝
近衛天皇・二条天皇の皇后。
近衛帝の外戚となることを意図した藤原頼長の養女となり、1150(久安6)年に入内し、皇后となる。その直後、頼長の異母兄忠通もその養女呈子を入内させたため、これが従前からの忠通・頼長兄弟の対立をさらに激化させることとなった。
1155(久寿2)年の帝の崩御後は落飾せず、1156(保元元)年に皇太后、1158(保元3)年には太皇太后となるが、1160(永暦元)年、その才色兼備ぶりに目を留めた二条帝の意を受けて入内し、「二代の后」と称される。
1165(永万元)年、二条帝の崩御により落飾し、隠棲した。
配役
田島錦治
生没 1867(慶応3)-1934(昭和9)
生地 武蔵国
家系
実父 田島与七
実母
別称
略伝
帝国大学法科で経済学・財政学を修め、1900(明治33)年、京都帝国大教授となる。その後、経済学部長などを歴任し、1927(昭和2)年の停年後は立命館大学学長に転じる。
その一方で、日本漕艇協会会長、大日本武徳会常議員などを務め、弓道でもその名を知られた。
なお、ドイツ留学中の1912(明治45)年、この年開催されたストックホルム五輪に、選手団長嘉納治五郎の要請を受け、通訳担当の役員として参加した。
配役
だ し
生没 1558(永禄元)?-1579(天正7)
生地
家系
実父 川那部左衛門尉?
実母 田井源介女
別称 出し、ちよほ、梶
略伝
荒木村重の妻。
1579(天正7)年11月、夫村重が立て籠る摂津有岡城が織田信長の軍勢により落とされると捕縛され、翌12月に京都六条河原で処刑された。
配役
| 浅野ゆう子(47) |
敵は本能寺にあり(2007・EX) 役名は多志 |
| 桐谷美玲(25) |
軍師官兵衛(2014・NHK) |
| 儘下笑美(37) |
戦国の勝者(2015・映画) |
| 吉高由里子(38) |
黒牢城(2026・松竹) |
| 山谷花純(30) |
豊臣兄弟!(2026・NHK) |
但木土佐
生没 1817(文化14)-1869(明治2)
生地 陸奥国
家系
実父 但木弘行
実母
別称 但木成行
略伝
仙台藩(伊達家)の奉行(家老)。
1839(天保10)年に家督を相続し、1851(嘉永4)年ごろに奉行となるが、病によりいったん辞職。1858(安政5)年ごろ再び起用されて奉行に任ぜられ、藩財政の立て直しや軍制改革に尽力し、主君伊達慶邦の信任を得る。しかし、その一方で、自身が開国佐幕派であったため、尊王攘夷派の奉行遠藤允信と激しく対立した。
1868(明治元)年、新政府軍が会津に迫ると、会津藩の赦免を嘆願するが、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵に排斥されて開戦不可避を悟り、奥羽越列藩同盟の結成に奔走。しかし、新政府軍の北進を止めることはできず、遠藤の進言を容れた慶邦の意により、仙台藩は新政府軍に降伏するに至った。
その後、新政府に捕縛され、翌年5月、叛逆首謀の罪により処刑された。
配役
| 中村政太郎(38) |
からす組(1930・松竹) |
| 三田 明(39) |
白虎隊(1986・NTV) |
| 若林 豪(52) |
疾風からす組(1991・TX) |
| 7嵐芳三郎(48) |
八重の桜(2013・NHK) |
寔 子
生没 1773(安永2)-1844(弘化元)
生地 薩摩国
実父 島津重豪
実母 登勢(市田貞行女)
別称 寧、篤、茂、広大院
略伝
徳川家斉の正室。
1776(安永5)年に一橋豊千代(家斉)と婚約。後に豊千代が将軍徳川家治の養子として江戸城に入るとこれに従い、家斉の将軍就任後の1789(寛政元)年に近衛経熙の養女として家斉に嫁ぐ。外様大名の子が将軍の正室となるのは初めてのことで、これにより父島津重豪の権勢は大いに高まった。
1841(天保12)年の家斉の没後は落飾し、広大院を称した。
配役
| 宮園純子(23) |
女犯破戒(1966・東映) 役名は御台所 |
| 伊吹友木子(38) |
大奥(1968・KTV) |
| 桜町弘子(31) |
大奥絵巻(1968・東映) 役名は萩乃 |
| 杉本美樹(19) |
エロ将軍と二十一人の愛妾(1972・映画) |
| 加藤春江 |
江戸プロフェッショナル 必殺商売人(1978・ABC) 役名は御台所 |
| 仁和令子(22) |
徳川の女たち(哀惜母ひとり)(1980・CX) |
| 笠間一寿美 |
髑髏検校(1982・CX) |
| 岩井友見(32) |
大奥犯科帳(1983・CX) |
| 荒木雅子(59) |
かげろう絵図(1983・CX) |
| 三ツ矢歌子(52) |
徳川の女帝 大奥(1988・映画) |
| 南風洋子(59) |
大奥殺人事件(1989・NTV) |
| 小林かおり(38) |
夢暦長崎奉行(1996・NHK) 役名は徳川定子 |
| 小芝風花(18) |
大江戸捜査網2015(2015・TX) |
| 光浦靖子(45) |
大奥 第一部 最凶の女(2016・CX) |
| 光浦靖子(45) |
大奥 第二部 悲劇の姉妹(2016・CX) |
| 白石加代子(75) |
かげろう絵図(2016・CX) |
立原幸隆
略伝
尼子家の家臣。
尼子晴久・義久父子に仕えて各地を転戦したが、1566(永禄9)年、毛利勢の攻撃によって尼子家の本拠出雲月山富田城が落城すると、降伏した主義久に従って安芸に移った。
配役
た つ
略伝
松平定勝の正室。
奥平貞能のいとこ。1573(天正元)年、武田家の人質となっていた姉ふうが処刑されると、これを悼んだ徳川家康の仲介で家康の異父弟松平定勝に嫁いだ。
配役
| 深水真紀子(21) |
徳川家康(1983・NHK) 役名は阿紀 |
辰
生没 1577(天正5)-1595(文禄4)
生地
家系
実父 山口重勝
実母
別称
略伝
豊臣秀次の側室。
前野将右衛門の養女として秀次の側室となり、秀次の次男となる百丸をもうけたが、1595(文禄4)年8月、秀次の切腹に連座して京都三条河原で斬首された。
配役
辰
生没 1592(文禄元)-1623(元和9)
生地
家系
実母
別称 大舘御前
略伝
石田三成の三女。
ねねの養女となる。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで敗れた父三成が処刑されると、弟重成とともに津軽家に匿われ、後に津軽藩主津軽信牧に嫁いで、信義(後の津軽藩主)をもうけた。
配役
田付四郎兵衛
生没 1830(天保2)-?
生地 武蔵国
家系
実父 田付直清
実母
別称
略伝
江戸幕府の旗本。
田付家は代々幕府鉄砲方を務める家柄で、1842(天保13)年、父直清の隠居により家督を相続するが、幼年のため叔父直愛の後見を受ける。
1849(嘉永2)年に幕府鉄砲方となり、1857(安政4)年からは幕府講武所砲術師範を務め、1866(文久2)年までこれを務めた。
配役
龍 子
生没 ?-1634(寛永11)
生地
家系
実父 京極高吉
別称 極殿、松の丸殿、寿芳院
略伝
豊臣秀吉の側室。
はじめ武田元明に嫁いだが、1582(天正10)年の本能寺の変の後に元明が明智光秀に属して羽柴秀吉に滅ぼされ、後に秀吉の側室となる。伏見城の完成後にはその松の丸に移り住んで、松の丸殿と称された。
1598(慶長3)年の秀吉没後は弟の京極高次を頼ってその本拠近江大津城に移ったが、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際、大津城が石田三成の攻撃を受けて落城すると京都へ戻り、後に落飾して寿芳院を称した。
配役
辰 路
生没 1844(弘化元)-1910(明治43)
生地
家系
実父
実母
別称 辰、竹岡タツ
略伝
久坂秀次郎の母。
京都島原の桔梗屋で芸妓をしていたころに久坂玄瑞と懇意となり、玄瑞との間に秀次郎をもうける(秀次郎は玄瑞死後の出生)。
1870(明治3)年、井筒太助の次女として豪農竹岡甚之助に嫁いだ。
配役
辰 蔵
略伝
1582(天正10)年6月2日に京都本能寺で織田信長が討たれると、長谷川宗仁の依頼を受け、これを備中出陣中の羽柴秀吉に伝えた。
配役
辰野 保
生没 1891(明治24)-1938(昭和13)
生地 東京府
家系
実父 辰野金吾
実母 辰野秀子
別称
略伝
東京帝大在学中から砲丸投げなどで活躍。卒業後は弁護士として開業した一方で、引き続きスポーツに携わり、1920(大正9)年のアントワープ五輪では日本選手団の監督を務める。
1933(昭和8)年には東京市議に当選し、市議会五輪招致委員長に就任して1940(昭和15)年の東京五輪招致に尽力した。
配役
立石得十郎
生没 1829(文政12)-?
生地 肥前国
家系
実父
実母
別称
略伝
通詞となり、1853(嘉永6)年のペリー来航の際には堀達之助とともに通訳として交渉に加わる。
1860(万延元)年には、日米修好通商条約の批准書交換使節の一員としてアメリカに派遣され、このとき特別に許可を得て甥の立石斧次郎(アメリカでは「トミー」と称された)を自らの息子として通詞見習として随行させた。
配役
竪山武兵衛
略伝
薩摩藩士。
薩摩藩(島津家)に仕え、島津斉興・斉彬・忠義の3代に側役として伺候した。
配役
| 小沢重雄(38) |
風雪(あけぼの)(1964・NHK) |
| 山本竜二(50) |
篤姫(2008・NHK) |
立入宗継
生没 1528(享禄元)-1622(元和8)
生地
家系
実父 立入頼隆
実母
別称
略伝
代々禁裏御蔵職を務める家に生まれ、朝廷の財政に深く関わった一方で、正親町天皇の勅使として織田信長に上洛を促し、1568(永禄11)年の信長の上洛後は朝廷と信長との間の周旋に努めた。
配役
田辺太一
生没 1831(天保2)-1915(大正4)
生地 武蔵国
家系
実父 田辺誨輔
実母
別称
略伝
幕府に出仕し、外国奉行支配調役や同組頭などを務め、1863(文久3)年には横浜鎖港談判使節に随行して渡欧するが、交渉に失敗したため、翌年の帰国後、免職・閉門となる。
後に赦免され、1867(慶応3)年にはパリ博覧会派遣使節に公使館書記官として随行。維新後は新政府に出仕し、外務少丞や元老院議官などを務め、1890(明治23)年には貴族院議員となった。
配役
田那村作八
略伝
桃井春蔵道場(士学館)の門人。
1857(安政4)年8月、同門の山本琢磨とともに飲酒し、たまたま道端で接触した佐州屋金蔵に因縁をつけて、金蔵が置き残した荷物から時計等を窃取。後にこれを転売しようとするが、贓物であることが露見した。
配役
ダニエル・インボーデン
生没 1893(明治26)-1965(昭和40)
生地 米国
家系
実父
実母
別称
略伝
1945(昭和20)年、連合国軍の日本占領に伴い、GHQ(連合国軍総司令部)職員として来日。CIES(民間情報教育局)新聞課長を務め、戦後日本の報道体制の整備を担当し、1952(昭和27)年に帰国した。
配役
| デビット・オーナウワー |
山河燃ゆ(1984・NHK) |
谷田絹子
生没 1939(昭和14)-2020(令和2)
生地 大阪府
家系
実父
実母
別称 井戸川絹子
略伝
1964(昭和39)年東京五輪の金メダリスト(バレーボール)。
四天王寺高卒業後、日紡(ニチボー)に入り、大松博文監督の下、後に「東洋の魔女」と称された日紡貝塚バレーボールチームのエースアタッカーとして活躍。1962(昭和37)年の世界選手権、1964(昭和39)年の東京五輪での日本代表チームの優勝に貢献した。
1965(昭和40)年に大松が退任すると、河西昌枝らともに退社。その後、地域でバレーボールの指導などにあたった。
配役
| 檜よしえ(23) |
おれについてこい!(1965・東宝) |
| 西 恵子①(23) |
ワン・ツウ・アタック!(1971・12CH) 役名は早田絹代 |
| 西 恵子②(23) |
レッツ・ゴー・ミュンヘン!(1971・12CH) 役名は早田絹代 |
| 堺 小春(25) |
いだてん 東京オリムピック噺(2019・NHK) |
谷村愛之助
生没 1842(天保13)-1869(明治2)
生地 薩摩国
家系
実父 谷村昌徳
実母 松方氏女
別称 谷村昌武
略伝
薩摩藩士。
藩主島津斉彬に小姓として仕え、1858(安政5)年の斉彬死後はその後を継いだ忠義の側近となる。翌1859(安政6)年には、大久保一蔵ら藩内尊王攘夷派の脱藩計画を知って忠義に告げ、忠義がこれを諭して中止させるに至る。
維新後は軍鑑富士山や武蔵の艦長を務め、旧幕府軍が立て籠もる箱館の平定のために出征を命じられるも、1869(明治2)年6月に病没した。
配役
| 潮 哲也(41) |
翔ぶが如く(1990・NHK) |
| 植原健介(31) |
篤姫(2008・NHK) |
種田政明
生没 1837(天保8)-1876(明治9)
生地 薩摩国
家系
実父
実母
別称 種子田政明
略伝
薩摩藩(島津家)に仕え、1868(明治元)年からの戊辰戦争では、東北地方に転戦する。
維新後の1871(明治4)年に兵部省に出仕し、1873(明治6)年には陸軍少将となり、東京鎮台長官に就任。後に熊本鎮台長官に転じたが、1876(明治9)年10月、熊本に神風連の乱が勃発した際、反乱軍に自邸を襲撃され、殺害された。
配役
種村三郎四郎
略伝
はじめ柴田勝家に仕える。
1583(天正11)年の勝家自害の後、前田利家が家臣として召し抱えようとしたところ、これを固辞したが、後に利家の招請を受けてこれに仕えた。
配役
田内喜多治
生没 1835(天保6)-1864(元治元)
生地 土佐国
家系
実父 武市半右衛門
実母 鉄(大井氏女)
別称 田内衛吉
略伝
武市半平太の弟。国学者田内菜園の養子となる。
半平太が1861(文久元)年に結成した土佐勤王党に加盟し、尊王攘夷派として活動。翌1862(文久2)年には、藩参政吉田東洋暗殺の下手人を探索していた井上佐一郎の暗殺に関わった。
後に藩論が尊王攘夷から公武合体へと転換して勤王党への弾圧が始まると捕縛され、1864(元治元)年11月、獄中で服毒死した。
配役
| 西島 一 |
幕末(1964・TBS)役名は田内恵吉 |
| 望月通治(33) |
竜馬がゆく(1968・NHK) |
玉
生没 1563(永禄6)-1600(慶長5)
生地 越前国?
家系
別称 ガラシャ
略伝
細川忠興の正室。
1578(天正6)年に忠興に嫁ぐ。
1582(天正10)年に父光秀が本能寺の変を引き起こしたため、夫忠興によって一時幽閉される。1587(天正15)年に侍女清原マリアの手で洗礼を受けてガラシャと称し、ラテン語やポルトガル語なども習得していたという。
1600(慶長5)年7月、上杉景勝追討のために徳川家康に従って東下した忠興の人質として大坂城へ入城することを拒否し、そのために石田三成によって大坂細川邸を包囲されると、敬虔なキリシタンであったために自害を避け、家老小笠原少斎に命じて自らを討たせた。その最期の様子は脱出した侍女の霜が残した「お志も覚書」の中に描かれている。
配役
珠
生没 1599(慶長4)-1622(元和8)
生地
別称
略伝
前田利常の正室。
徳川秀忠の次女。1601(慶長6)年、加賀前田家の世子利常に嫁いだ。
配役
玉乃世履
生没 1825(文政8)-1886(明治19)
生地 周防国
家系
実父 桂脩助
実母 桂氏女
別称
略伝
周防岩国の吉川家家臣の子に生まれる(桂元澄の子孫という)。
岩国の養老館で玉乃九華に学び、その死後に玉乃家を継承し、養老館などで教鞭をとる。
維新後は新政府に出仕し、民部権大丞などを務め、1871(明治4)年に司法省に入る。1875(明治8)年の大審院設置時にはそのトップ(院長代理、後に院長)となるが、1879(明治12)年には司法大輔に転じ、法典整備などに尽力。1881(明治14)年に再び大審院長となったが、1886(明治19)年8月、在職のまま自死した。
なお、名は「せいり」とするものもある。
配役
玉虫左太夫
生没 1823(文政6)-1869(明治2)
生地
家系
実父 玉虫平蔵
実母
別称
略伝
仙台藩士。
江戸に出て林復斎の門を叩き、後にその塾頭を務めるまでに至る。1860(万延元)年には、日米修好通商条約の批准書交換使節の正使新見豊前守に従い、咸臨丸に乗船して渡米。帰国後、仙台藩(伊達家)に出仕して各地を歩き、諸藩の藩士や志士らとの交流を深める。
1868(明治元)年の戊辰戦争の際には、奉行(家老)但木土佐の信を得て、若生文十郎とともに会津藩の赦免を図る一方で、奥羽越列藩同盟の成立に尽力。軍務局副統取として新政府軍に抗戦したが、敗戦後の翌1869(明治2)年4月、藩論の転換によりその責めを問われて投獄され、切腹させられた。
配役
| 岡田喜久也(29) |
からす組(1930・松竹) |
| 宮寺康夫(44) |
夫婦ようそろ(1978・TBS) |
| 渡 洋史(44) |
白虎隊(2007・EX) |
田丸稲之衛門
生没 1805(文化2)-1865(慶応元)
生地 常陸国
家系
実父 山国孫左衛門
実母 田丸直諒女
別称
略伝
水戸藩士。
山国兵部の弟。母方の祖父田丸直諒の養子となる。水戸徳川家に仕えて目付や使番などを務め、藩内では尊王攘夷派として活動する。
1864(元治元)年には、藤田小四郎らとともに、攘夷に踏み切れぬ幕府に対し藩内の急進的尊王攘夷派(天狗党)を率いて筑波山に挙兵するが、幕府や水戸藩の攻撃を受けて潰滅。小四郎らとともに京都へ上ろうとするが、越前で加賀藩の攻撃を受けてこれに降伏し、翌1865(慶応元)年2月、同国敦賀にて処刑された。
配役
| 阪東国太郎 |
天狗騒動記(1930・映画) |
| 海江田譲二(46) |
美男天狗党(1954・映画) |
| 小山源喜(56) |
天皇の世紀(1971・ABC) |
| 田口 計(65) |
徳川慶喜(1998・NHK) |
| 木村靖司(59) |
青天を衝け(2021・NHK) |
ダミアン
略伝
イエズス会の日本人修道士。
洗礼を受けてイルマン(修道士)となり、1559(永禄2)年にはヴィレラやロレンソとともに上洛した。
配役
多羅尾光俊
生没 1514(永正11)-1609(慶長14)
生地 近江国
家系
実父 多羅尾光清
実母 池田教正女
別称
略伝
近江の国人。
近江信楽を拠点とする甲賀衆の一で、畿内に勢力を伸ばした織田信長に属し、その伊賀平定戦に活躍。1582(天正10)年6月、堺で信長の横死を知った徳川家康が三河へ遁走する途中、伊賀の山中を案内する。その後、事実上信長の後継者となった羽柴秀吉に属して8万石余を領するに至り、後に近江八幡に入った秀吉の甥秀次には娘万を側室として差し出すなど、秀吉との関係を強化した。
1595(文禄4)年に秀次が失脚すると、秀吉により改易されたが、1598(慶長3)年の秀吉死後、家康に召し出されてこれに仕え、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでも家康に属して活躍。戦後、信楽に7000石余を与えられた。
配役
| 冨田浩太郎(58) |
徳川家康(1983・NHK) 役名は山口光俊 |
| きたろう(75) |
どうする家康(2023・NHK) |
樽屋藤左衛門
略伝
江戸の町年寄。
1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入った際、水野康忠(樽三四郎)が江戸の町の支配を委ねられ、以後8代(忠元・元次・元政・忠朝・元朝・元堅・堅忠・政恒)にわたって樽屋藤左衛門を称し、町年寄を務める。その後も幕末に至るまで江戸の町年寄として名主を支配し、東国33か国の枡座の特権を与えられた。
配役
田原親賢
生没 ?-1600(慶長5)
生地
家系
実父 奈多鑑基
実母
別称 田原紹忍
略伝
大友家の家臣。
田原親資の養子となる。妹(姉とも)が大友義鎮(宗麟)の側室であったことから義鎮・義統父子の信頼を得、豊前探題などを務めて家中で重きをなす。1578(天正6)年の島津勢との日向耳川での戦いでは総大将を務めるが、家臣団の対立もあって軍勢の統制がとれずに大敗を喫し、戦後、所領を没収され、失脚する。
その後、復帰して義統の側近くに仕えるが、1593(文禄2)年に義統が改易されると、後に豊後岡に入った中川秀成に出仕。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際、義統が旧領回復を企図して挙兵するとこれに加わったが、徳川方に属した黒田如水に敗れて降伏。同年10月、石田方の太田一吉の軍勢と戦って討死した。
配役
淡 海
略伝
僧侶。
『平治物語』によれば、中国より日本に渡り、那智山に逗留。1155(久寿2)年ごろ、熊野参詣中の鳥羽院と対面した。
配役
湛 快
生没 1099(康和元)-1174(承安4)
生地
家系
実父 長快
実母
別称
略伝
熊野別当。
1159(平治元)年、平清盛の熊野参詣中に源義朝が京都で挙兵すると、清盛に加勢し、清盛の勝利に貢献したという。
配役
丹下健三
生没 1913(大正2)-2005(平成17)
生地 大阪府
家系
実父 丹下辰世
実母
別称 丹下テイ
略伝
東京帝大・同大学院で建築を学び、修了後は、同大助教授となる(後に教授)。
太平洋戦争後、広島の平和記念公園のコンペで自らの案が選ばれて世界的に名を知られるようになり、その後も、新旧東京都庁舎、1964(昭和39)年開催の東京五輪に合わせて建設された国立代々木競技場(体育館)、1970(昭和45)年の大阪万博での「お祭り広場」などさまざまな巨大建築物の設計を担当。1980(昭和55)年には文化勲章を受章した。
配役
湛 増
生没 1130(大治5)-1198(建久9)
生地
家系
実母
別称
略伝
『義経記』によれば弁慶の父であるという。
熊野別当を務める父湛快とともに熊野水軍を率いて平氏に従っていたが、1180(治承4)年に源頼朝が平氏に対して挙兵した後は源氏方に属する。1184(元暦元)年には熊野別当となり、翌年の壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏方の勝利に功があった。
配役
坦 中
略伝
雑賀衆の中で鉄砲の名手とされていた者の一人。
配役
淡野 徹
生没 1936(昭和11)-2017(平成29)
生地 台湾
家系
実父
実母
別称
略伝
日本統治下の台湾に生まれる。
航空自衛隊ブルーインパルスに所属していた1964(昭和39)年、東京五輪開会式での祝賀飛行を担当し、空に青、黄、黒、緑、赤の「五輪マーク」を描き出すことに成功(自身は黄を担当)する。
1970(昭和45)年に退職し、日本航空に入社した。
配役