前田慶次郎
生没 1543(天文12)?-1612(慶長17)?
生地 尾張国
実父 滝川益氏
別称
略伝
母が父の没後、前田利久と婚姻したためにその養子となったというが諸説がある。
1569(永禄12)年、養父利久が織田信長の命によって家督をその弟利家に譲り、尾張荒子城を退去すると、これに従って荒子を離れ、利久らとともに各地を流浪したという。
1583(天正11)年に利家が加賀尾山(金沢)城主となった際に利久とともにこれに招かれたといわれ、以後、利家に従って各地を転戦。しかし、1587(天正15)年の利久の没後、前田家を出奔する。このとき利家を茶に呼んで風呂を勧めたがその風呂は実は水風呂で、これに怒った利家が慶次郎を捕まえようとしたが、既に名馬「松風」(利家の名馬「谷風」とも)に乗って逃亡していたという伝説が残る。
出奔後は京都にあったが、1598(慶長3)年ごろ旧知の上杉家家老直江兼続を通じて上杉景勝に仕え、1600(慶長5)年の最上勢や伊達勢との戦いなどで奮戦。その後、景勝の出羽米沢への減転封に従い、米沢に移った。
配役
片岡市太郎(23) |
加賀の若殿(1923・マキノ) 役名は前田犬喜代利大 |
市川右太衛門(52) |
あばれ大名(1959・東映) |
原田甲子郎 |
スペッタクラー(戦国風流侍)(1962・NTV) |
及川光博(33)
村上雄太(12)
當間 竣(7) |
利家とまつ 加賀百万石物語(2002・NHK) |
藤 竜也(74) |
かぶき者慶次(2015・NHK) |
前田慶次郎の妻
略伝
前田慶次郎の妻。
配役
江波杏子(73) |
かぶき者慶次(2015・NHK) 役名は前田美津 |
前田玄以
生没 1539(天文8)-1602(慶長7)
生地 美濃国
実父 前田基光
実母
別称 徳善院
略伝
はじめ仏門に入っていたが、織田信長に見出されて還俗し、後にその嫡男信忠付となる。1582(天正10)年の本能寺の変の際には信忠とともに二条御所にあって、その嫡男三法師を守って脱出したという。
その後、信長の次男信雄に仕えたが、やがて羽柴秀吉のもとに転じ、京都所司代として朝廷との交渉、洛中の治安維持、寺社仏閣の管理などを担当。その功により、丹波亀山で5万石を与えられ、秀吉の晩年にはいわゆる五奉行の一に数えられた。
1598(慶長3)年の秀吉の没後、石田三成と徳川家康との対立が深まると、旗幟を鮮明にせず、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後にはその甲斐あってか本領を安堵された。
配役
前田綱紀
生没 1643(寛永20)-1724(享保9)
生地 武蔵国
実父 前田光高
略伝
1645(正保2)年の父光高の死により家督を相続して加賀藩主となるが、3歳だったため祖父利常の後見を受ける。
1723(享保8)年に隠居するまでの80年近い治世の中、藩制の整備と財政の再建に尽力。文化事業にも大いに力を入れ、名君と称された。
配役
大友柳太郎(29) |
罪なき町(1941・映画) |
徳大寺伸(44) |
水戸黄門漫遊記 火牛坂の悪鬼(1955・映画) |
市川男女之助(47) |
荒海に挑む男一匹 紀の国屋文左衛門(1959・映画) |
高田浩吉(53) |
忍び大名(1964・映画) |
武内 亨(51) |
水戸黄門(1978・東映) |
水上保広(31) |
水戸黄門(第9部)(1978・TBS) |
加茂雅幹 |
水戸黄門(第20部)(1990・TBS) |
有島淳平(64) |
暴れん坊将軍 IV(1991・ANB) 役名は前田加賀守 |
西沢利明(56) |
ご存知!旗本退屈男 VII(1992・ANB) |
小笠原弘(66) |
水戸黄門(第22部)(1993・TBS) |
大竹修造(49) |
水戸黄門(第23部)(1994・TBS) |
高松英郎(66) |
八代将軍吉宗(1995・NHK) |
下塚 誠①(48) |
水戸黄門(第29部)(2001・TBS) |
下塚 誠②(50) |
水戸黄門(第32部)(2003・TBS) |
前田利家
生没 1538(天文7)?-1599(慶長4)
生地 尾張国
別称 前田犬千代、前田又左衛門
略伝
若年のころより織田信長に仕え、その派手な出で立ちから「かぶき者」としてその名を知られる。
1556(弘治2)年の信長とその弟信行との稲生の戦いでは矢を右眼下に受けて負傷するも活躍。しかし、1559(永禄2)年に信長の同朋衆拾阿弥を斬ったために信長の怒りを買って放逐され、翌年の桶狭間の戦いで戦功を挙げるも赦されず、翌1561(永禄4)年の美濃森部の戦いで敵将足立六兵衛を討ち取ってようやく帰参を認められ、以後、信長に従って各地を転戦した。
1569(永禄12)年、信長の命により長兄利久に代わって前田家の家督を継承。1574(天正2)年からは柴田勝家の与力として北陸方面の攻略に加わり、翌年の越前一向一揆平定後に佐々成政、不破光治を合わせた3人で越前府中に10万石を与えられる。北陸の平定が進んだ1581(天正8)年には能登一国23万石を与えられて七尾城主(後に本拠を小丸山城に移転)となり、勝家らとともに東方の上杉景勝への圧力を強めた。
1582(天正10)年6月の信長の横死後は、勝家と朋輩羽柴秀吉の対立が次第に深まる中、引き続き勝家に属するが、両者が激突した翌年の賤ヶ岳の戦いでは当初勝家方として出陣したものの後に戦線を離脱して秀吉に従い、勝家の本拠越前北ノ庄城攻撃の先鋒を務める。戦後、秀吉より加賀などで加増を受け、本拠を小丸山城より加賀尾山(金沢)城に移したが、秀吉に抵抗を続ける隣国越中の佐々成政との間に軋轢を生じ、翌1584(天正12)年には成政に能登末森城を包囲されたものの、激戦の末にこれを退けた。
その後の豊臣政権下では常に秀吉の側にあり、秀吉の晩年には徳川家康らとともに五大老の一に名を連ね、その信頼の厚さから死の床にあった秀吉に請われてその嫡男秀頼の後見役となる。1598(慶長3)年8月の秀吉没後は、秀頼を後見しつつ、対立を深める家康と石田三成との間の周旋を試みていたが、翌年閏3月、大坂に没した。
配役
前田利常
生没 1593(文禄2)-1658(万治元)
生地 加賀国
別称 猿千代
略伝
前田利家の四男。
利家の長女幸とその婿前田長種によって養育され、後に子のない異母兄利長の養子となり、1605(慶長10)年の利長の隠居により家督を相続し、加賀藩主となる。
1614(慶長19)年からの大坂の陣では幕府方に属して奮戦。特に冬の陣では、真田丸に立て籠もる真田幸村勢と激しく交戦する。藩政では、特に農政や治水に注力して一定の成果を挙げることに成功。1639(寛永16)年に隠居して嫡男光高に家督を譲り、加賀小松城に隠退したが、1645(正保元)年に光高が没し、その嫡男犬千代丸(綱紀)が3歳で加賀藩主となったため、これを後見してその政務を輔佐した。
配役
前田利長
生没 1562(永禄5)-1614(慶長19)
生地 尾張国
別称 前田利勝
略伝
前田利家の長男。
父利家とともに織田信長に仕え、1581(天正9)年に利家が能登一国を与えられた際、利家の旧領越前府中を与えられる。
利家が羽柴秀吉に属した後は秀吉に仕え、各地を転戦。1599(慶長4)年の利家の死により金沢城主となるが、同年の加賀在国中に謀叛の風聞が生じ、一時は徳川家康の加賀への出兵が取りざたされる。これに対し、母芳春院(まつ)を人質に出して難を逃れ、その後、家康に接近した。
翌年、石田三成が家康に対して挙兵した際には、石田方に属した加賀大聖寺城攻略などに当たり、関ヶ原の戦いの後、家康によって、石田方に属した弟利政の所領能登七尾などを加増されて120万石余を領するに至り、わが国で最大の石高を有する大大名となった。
正室には信長の娘永を迎えていたがその間に子はなく、1605(慶長10)年の隠居時には家督を異母弟利常に譲り、富山城に退去した。
配役
前田利玄
略伝
前田利家の兄。
前田利昌の次男。能登で没したという。
配役
前田利久
略伝
前田利家の兄。
前田利昌の長男。1560(永禄3)年の父利昌の没後、家督を継承して織田信長に仕える。
1569(永禄12)年、信長により家督を弟利家に譲るよう命じられて隠居するが、家臣奥村永福らが本拠尾張荒子城の引渡しを一時拒絶するなど家中が混乱した。
その後、荒子を離れて各地を流浪したとされ、1583(天正11)年に利家が加賀尾山(金沢)城主となった際に利家に招かれてこれに仕え、その後、利家不在時の金沢城代を務めるなど利家に手厚く遇された。
配役
前田利久の妻
略伝
前田利久の正室。
前田慶次郎の母という。滝川家に嫁いで夫と死別した後、前田利久に再嫁した。
配役
前田利昌
生没 ?-1560(永禄3)
生地 尾張国?
実父 前田利隆?
実母
別称 前田利春
略伝
前田利家の父。
織田家に仕え、その家臣林通勝の与力となって尾張荒子城主を務めた。
配役
前田利政
生没 1578(天正5)-1633(寛永10)
生地 尾張国
別称 又若丸
略伝
前田利家の次男。
1593(文禄2)年、能登一国を与えられて七尾城主となる。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、能登から動かなかったため、戦後、徳川家康により所領を没収され、その後は京都に隠棲した。
配役
前田長種
生没 1550(天文19)-1631(寛永8)
生地 尾張国?
実父 前田種定
実母
略伝
前田利家の長女幸の夫。前田一族の本家筋に当たる。
はじめ織田信長に仕え、その横死後は羽柴秀吉に仕えるが、1584(天正12)年の小牧長久手の戦いで織田信雄の攻撃を受けて尾張の本拠を失うと、利家を頼ってこれに仕える。その後、越中富山城主や加賀小松城主などを務めた。
配役
前田秀継
略伝
前田利家の弟。
前田利昌の六男。兄利家に仕え、1583(天正11)年に利家が加賀尾山(金沢)城主となった際には7000石を与えられる。
その後、隣国越中への攻勢を強め、1585(天正13)年に佐々成政が豊臣秀吉に降伏して越中の平定が成ると、越中木舟城主となって4万石を与えられたが、同年11月、飛騨地方を震源とする大地震(天正地震)により木舟城が崩壊し、圧死した。
配役
前田安勝
略伝
前田利家の兄。
前田利昌の三男。1569(永禄12)年、弟利家が織田信長の命により前田家の家督を継承した際、隠居させられた長兄利久らとともに、前田家の本拠尾張荒子城を退去したという。
1573(天正元)年、利家が越前府中城を与えられた際に招かれ、以後、利家に従う。後に利家が能登を与えられると、七尾城主などを務めた。
配役