かじわら・かげきよ
【生没】1866(慶応2)−?
【生地】陸奥国
【実父】梶原平馬
【実母】梶原二葉
【別称】梶原寅千代
【略伝】
梶原平馬の長男。
海軍に入り、海軍軍医を務めた。
【配役】
かじわら・かげすえ
【生没】1162(応保2)−1200(正治2)
【生地】
【実父】梶原景時
【実母】
【別称】梶原源太
【略伝】
梶原景時の長男。
父景時とともに源頼朝の側近くに仕え、平氏追討戦などで活躍する。しかし、1199(正治元)年の頼朝没後に景時が失脚するとこれに連座し、翌年1月、京都へ落ち延びる途中、駿河で在地の武士らと戦闘となり、劣勢となって景時らとともに自害した。
なお、『平家物語』には、1184(元暦元)年の宇治川の戦いで佐々木高綱と先陣争いを演じた様子が描かれている。
【配役】
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2尾上松之助(47) |
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閻魔小平(1922・日活) |
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浪花五郎 |
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平家西へ行く(1941・新興) |
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服部哲治(30) |
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源義経(1966・NHK) |
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宮崎達也(24) |
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草燃える(1979・NHK) |
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真矢 武(23) |
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源義経(1990・TBS) |
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小栗 旬(23) |
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義経(2005・NHK) |
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柾木玲弥(27) |
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鎌倉殿の13人(2022・NHK) |
かじわら・かげたか
【生没】?−1200(正治2)
【生地】
【実父】梶原景時
【実母】
【略伝】
梶原景時の次男。
平氏追討戦などで活躍したが、1199(正治元)年の頼朝没後に景時が失脚するとこれに連座し、翌年1月、京都へ落ち延びる途中、駿河で在地の武士らと戦闘となり、劣勢となって景時らとともに自害した。
【配役】
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川田弘三(36) |
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夜討曽我(1929・マキノ) |
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阪東太郎(37) |
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平家西へ行く(1941・新興) |
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下坂泰雄(27) |
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草燃える(1979・NHK) |
かじわら・かげとき
【生没】?−1200(正治2)
【生地】相模国
【実父】梶原景清
【実母】横山孝兼女
【別称】梶原平三
【略伝】
鎌倉幕府の侍所別当。
1180(治承4)年に源頼朝が平氏に対して挙兵すると、はじめ平氏方の大庭景親に属してこれと戦ったが、相模石橋山に敗れて潜伏していた頼朝を故意に見逃したことが縁で後に頼朝に仕えるようになり、その信任を得る。平氏追討戦では源義経に従って各地を転戦するが、次第に義経と不和となり、義経について頼朝に讒言し、義経追討の契機を作ったという。
1192(建久3)年の頼朝の征夷大将軍就任後は、侍所の別当となってこれを補佐。1199(正治元)年の頼朝没後、その後継頼家の親政から有力御家人13人による合議制に移行するとその一員となったが、その専横を危険視した北条時政ら有力御家人によって弾劾されて失脚し、翌年1月、京都へ落ち延びる途中、駿河で在地の武士らと戦闘となり、劣勢となって自害した。
【配役】
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原聖四郎(34) |
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静御前(1938・新興) |
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6嵐徳三郎(58) |
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平家西へ行く(1941・新興) |
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光岡龍三郎(40) |
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万寿姫(1941・映画) |
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鳥羽陽之助(49) |
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浮かれ狐千本桜(1954・映画) |
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永田 靖(49) |
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新・平家物語 静と義経(1956・映画) |
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2大川橋蔵(27) |
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曽我兄弟 富士の夜襲(1956・東映) |
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東野英治郎(55) |
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源九郎義経(1962・東映) |
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2中村歌門(53) |
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源義経(1966・NHK) |
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戸浦六宏(40) |
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北条政子(1970・NET) |
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森 幹太(48) |
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新・平家物語(1972・NHK) |
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江原真二郎(43) |
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草燃える(1979・NHK) |
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石田弦太郎(42) |
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武蔵坊弁慶(1986・NHK) |
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綿引勝彦(45) |
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源義経(1990・TBS) |
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本田博太郎(40) |
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源義経(1991・NTV) |
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西田 健(52) |
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弁慶(1997・ANB) |
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中尾 彬(63) |
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義経(2005・NHK) |
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浜田 学(36) |
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平清盛(2012・NHK) |
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2中村獅童(50) |
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鎌倉殿の13人(2022・NHK) |
かじわら・へいま
【生没】1842(天保13)−1889(明治22)
【生地】
【実父】内藤信頼
【実母】貞(梶原景保女)?モト?
【略伝】
会津藩(松平家)に仕える。
1862(文久2)年、藩主松平容保が幕府より京都守護職に任ぜられるとこれに従って上洛。1865(慶応元)年に若年寄、翌年には家老に就任し、容保を補佐する。
1868(明治元)年1月の鳥羽伏見の戦いでの敗戦後は、会津へ引き揚げずに江戸に留まって武器調達などに奔走し、越後長岡藩家老河井継之助らと連携して新潟港の確保、奥羽越列藩同盟の成立などに貢献する。同年8月、新政府軍が会津に侵攻すると、若松城籠城戦に加わってこれに抗戦。翌9月の会津藩の降伏後は、京都で謹慎の身となったが、容保・喜徳父子の助命嘆願に奔走した。
維新後は会津藩の移封先陸奥斗南へ移住し、後に青森県に出仕したが、ほどなくして辞職。その後は北海道に渡り、はじめ函館、後に根室に移り住んだ。
【配役】