おおたに・しげじろう
【生没】
【生地】
【実父】
【実母】
【略伝】
土佐藩士。
1829(文政12)年、講習勤並通鑑綱目会頭として土佐藩への出仕を命じられ、同年に朱子学の私塾を開く。その後、藩小目付などを務めた。
【配役】
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中平良夫(61) |
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龍馬伝(2010・NHK) |
おおたに・よしかつ
【生没】?−1615(元和元)
【実父】大谷吉継
【別称】大谷吉治(義治)
【略伝】
大谷吉継の長男。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、父吉継とともに石田三成に属して出陣するが、本戦中に戦場を離脱し、各地を流浪する。
1614(慶長19)年、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入り、翌年5月の大坂夏の陣で幕府方の軍勢と戦って討死した。
【配役】
おおたに・よしつぐ
【生没】1559(永禄2)?−1600(慶長5)
【生地】近江国?
【実父】大谷吉房?
【実母】東殿
【別称】大谷刑部
【略伝】
豊臣家の家臣。
豊臣秀吉に仕えて各地を転戦。その戦功により1589(天正17)年に越前敦賀2万石を与えられる(後に5万石に加増)。1592(文禄元)年からの朝鮮出兵では、船奉行などを務めて活躍した。
秀吉の生前から徳川家康とは懇意であったといい、1598(慶長5)年の秀吉没後は家康を支持していたが、1600(慶長5)年7月、家康による上杉景勝征討の軍勢に加わって上方より東下する途中、古くから親交のあった石田三成の説得を受けてこれに加担する。
同年9月15日の関ヶ原の戦いでは、藤堂高虎勢などを相手に奮戦していたが、小早川秀秋らの裏切りに遭って自軍が潰滅し、自害して果てた。いわゆるハンセン病に冒されて面相が崩れていたために鎧を着けるに耐えず、頭巾で顔面を覆い、輿に乗って采配を振るっていたと伝わる。
【配役】