長宗我部信親
生没 1565(永禄8)-1587(天正14)
生地 土佐国
略伝
- 長宗我部元親の長男。
- 文武に優れて人望を集め、父元親の後継として将来を嘱望される。烏帽子親となった織田信長より偏諱を受け、信親を称した。
- 1586(天正14)年、豊臣秀吉の九州攻めに父元親とともに従軍。同年12月、豊後戸次川で島津勢と交戦し、仙石秀久の独断による強行策の結果、諸将は乱戦の中で敗走。元親とはぐれつつも戦場に留まって奮戦したが、討死した。信親の死は元親に大きな衝撃を与え、以後の家督継承問題や元親自身の性格の変化にも影響したという。
配役
長宗我部元親
生没 1539(天文8)-1599(慶長4)
生地 土佐国
実父 長宗我部国親
実母 斎藤氏女
略伝
- 土佐岡豊城主長宗我部国親の子。
- 幼少のころは「姫若子」と呼ばれたほどおとなしかったというが、1560(永禄3)年5月の初陣で活躍。同年6月の父国親の死により家督を相続して岡豊城主となる。その後、土佐の統一を進め、1575(天正3)年には土佐を統一することに成功し、「土佐の出来人」と称される。
- 「一領具足」と呼ばれた兵農未分離の強兵を率いて、さらに隣国の阿波や讃岐へ進出し、四国の大部分を平定するが、海を挟んで織田信長と境を接するに至ってこれと次第に対立。しかし、四国攻めを目前にした1582(天正10)年6月に信長が京都本能寺で横死すると、再び勢力を拡大し、最終的に1585(天正13)年春までに伊予の河野家らを降して四国のほぼ全土を掌中に収めた。
- しかし、同年、羽柴秀吉による四国攻めを受け、はじめこれに抵抗するもほどなくして降伏して土佐一国を安堵される。1586(天正14)年には秀吉の九州攻めに従軍し、嫡男信親が同年12月の豊後戸次川の戦いで島津勢に敗れて討死したため、家中の反対を押し切って後継に四男盛親を据えたが、信親の死を境に元親の性格は一変したともいう。
- その後、居城を岡豊から大高坂を経て浦戸に移し、1592(文禄元)年からの朝鮮出兵では2度とも渡海。1597(慶長2)年には分国法「長宗我部元親百箇条」を定め、1599(慶長4)年、山城伏見で没した。
配役
| 庄司永建(55) |
黄金の日日(1978・NHK) |
| ダイヤモンド勝田(59) |
軍師官兵衛(2014・NHK) |
| 磯部寛之(44) |
豊臣兄弟!(2026・NHK) |
長宗我部盛親
生没 1575(天正3)-1615(元和元)
生地 土佐国
略伝
- 長宗我部元親の四男。
- 1586(天正14)年、九州に出陣中の長兄信親が豊後戸次川で討死すると、他家に養子に出ていた2人の兄を差し置いて父元親の後継者に定められ、1599(慶長4)年、元親の死により家督を相続して土佐国主となる。
- 翌年の関ヶ原の戦いでは石田三成に属し、9月15日の本戦では毛利秀元らとともに関ヶ原の南宮山麓に布陣したが、既に徳川方に内通していた吉川広家の妨害に遭い、戦わずして撤退。戦後、土佐に戻り、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪したが、実兄津野親忠の殺害に加え、国元で起こった浦戸一揆の責任も問われて所領を没収された。
- その後、京都で寺子屋を営んでいたが、1614(慶長19)年、豊臣秀頼に招かれて大坂城に入城し、翌年の夏の陣では豊臣方の主力として奮戦。河内八尾方面で藤堂高虎らと戦ったが、井伊直孝勢の側面攻撃を受けて敗走する。
- 大坂城の落城後は山城橋本付近に潜伏したが捕縛され、5月15日に京都六条河原で斬首された。ここに長宗我部家は滅亡した。
配役