すえ・おきふさ
【生没】1475(文明7)−1539(天文8)
【生地】周防国
【実父】陶弘護
【略伝】
大内家の家臣。
大内義興に仕えて重用され、周防守護代を務める。
1508(永正5)年の義興の上洛に従い、1511(永正8)年の京都船岡山の戦いで活躍。1528(享禄元)年の義興没後もその後継義隆の右腕として各地を転戦し、九州北部での勢力拡大に大きく貢献した。
【配役】
すえ・はるかた
【生没】1521(大永元)−1555(弘治元)
【生地】周防国
【実父】陶興房
【実母】陶弘詮女
【別称】陶隆房
【略伝】
大内家の家臣。
1539(天文8)年の父興房の死により家督を継承し、大内義隆に仕える。翌年、尼子晴久が安芸に侵攻して毛利元就の本拠吉田郡山城を包囲した際には、義隆に従って元就を支援して勝利し、1542(天文11)年には逆に出雲に侵攻して晴久の本拠月山富田城を囲んだが、翌年、晴久の反撃に遭って惨敗した。
その後、政務への関心を失ったといわれる義隆やその側近相良武任との対立を深め、1551(天文20)年、義隆に対して挙兵してこれを自害に追い込み、大内義長を当主に据えて大内家を掌握した。
しかし、1554(天文23)年になって、これまで大内家に従属していた元就が離反し、翌年10月、これを討伐するために安芸に侵攻して厳島に拠るが、数で劣る毛利勢の急襲を受けて惨敗し、自害して果てた。
【配役】