岸 清一
きし・せいいち

【生没】1867(慶応3)−1933(昭和8)
【生地】出雲国
【実父】岸伴平
【実母】
【略伝】
 出雲松江藩士の子に生まれる。
 帝大(英法科)卒業後、弁護士となる。当時の弁護士としては珍しく帝大卒で、かつ外国語が堪能ということもあって幅広い活動をみせ、東京弁護士会長なども務める。
 帝大時代にボ−ト選手として活躍したことから、スポーツ界にも顔が広く、1921(大正10)年には嘉納治五郎の後を受けて大日本体育協会会長に就任。1924(大正13)年のパリ五輪の際に国際オリンピック委員にも就任し、わが国のスポ−ツの発展に貢献した。
 1932(昭和7)年には貴族院議員となったが、翌年に没した。
【配役】
岩松 了(67) …… いだてん 東京オリムピック噺(2019・NHK)

岸 信介
きし・のぶすけ

【生没】1896(明治29)−1987(昭和62)
【生地】山口県
【実父】佐藤秀助
【実母】佐藤茂世(岸要蔵女)
【略伝】
 内閣総理大臣(56・57代)。
 東京帝大を卒業後、農商務省に入り、後に分割された商工省に配属されるが、1936(昭和11)年には満州国に渡って、満州国国務院総務長官などを務め、満州の経営を主導する。
 1941(昭和16)年10月に成立した東条英機内閣には商工相として入閣し、太平洋戦争における物資調達を担当。しかし、1943(昭和18)年に商工省が軍需省に改組され、軍需大臣を東条が兼務し、自身が軍需次官(国務相)となったことを契機に東条と不和になったとされ、翌年7月には東条の内閣改造方針に反発して総辞職を要求し、東条内閣崩壊の流れを作った。
 開戦時の商工相であったため、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として訴追されるが、後に不起訴とされ、公職追放の処分を受ける。1952(昭和27)年に公職追放が解除されると政治活動を再開し、翌年には吉田茂の率いる自由党に入党。同年の衆議院議員総選挙で当選を果たしたが、吉田との対立から1954(昭和29)年11月に鳩山一郎らと民主党を結成して幹事長に就任する。翌年、民主党と自由党とが合併して自由民主党(自民党)が発足すると、その初代幹事長となった。
 1956(昭和31)年12月に成立した石橋湛山内閣に外相として入閣するが、翌年2月に石橋首相が病気により辞任すると、石橋の後継指名を受けて内閣総理大臣に就任。内閣成立時に石橋内閣の全閣僚を引き継いだため、同年7月に内閣を改造を行い、翌1958(昭和33)年4月には衆議院を解散して総選挙に勝利し、政権基盤を確立する。
 第二次内閣では実弟佐藤栄作を蔵相に迎え、日米安保条約の改定を目指し、治安維持のために警職法の改正に着手したが、社会党の激しい反対にあって頓挫し、池田勇人国務相らが岸の責任を追及して閣僚を辞任するなどの混乱を招いた。
 1959(昭和34)年6月の参院選勝利、これに続く内閣改造で池田らの取り込みに成功して党内基盤を安定させ、翌年1月には渡米して新安保条約に調印する。しかし、社会党などが条約の承認に激しく抵抗し、国内でも条約反対の運動(安保反対運動)が広がりを見せる中、同年5月19日に採決を強行。デモ隊が幾度となく国会前に押し寄せるなど反対運動の激しさが増す中、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日も断念を余儀なくされ、6月18日の条約の自然承認の後、内閣総辞職を表明した。
 その後、日韓国交回復などに尽力するなどし、1979(昭和54)年に政界を引退した。
【配役】
片山 滉(48) …… 激動の昭和史 軍閥(1970・東宝)
仲谷 昇(54) …… 小説吉田学校(1983・東宝)
岡田映一(52) …… 山河燃ゆ(1984・NHK)
市山貴章(57) …… 李香蘭(2007・TX)
小日向文世(56) …… わが家の歴史(2010・CX)

大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典
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