のぐち・げんざぶろう
【生没】1888(明治21)−1967(昭和42)
【生地】埼玉県
【実父】丸橋栄三郎
【実母】丸橋筆子
【略伝】
母方の親戚野口八十郎の養子となる。
埼玉県師範学校を卒業後、小学校教員を務めていたが、1911(明治44)年に東京高等師範学校に入学し、陸上競技で頭角を現す。東京高師では金栗四三らと切磋琢磨し、後に金栗らとともに箱根駅伝の企画にも携わる。
1920(大正9)年のアントワープ五輪では日本代表に選出されて十種競技に出場(主将を兼ねる)、1924(大正13)年のパリ五輪では陸上競技の日本代表監督を務める。その後、東京教育大教授、埼玉大教授、順天堂大教授などを歴任した。
【配役】
のぐち・けんじ
【生没】1843(天保14)−1863(文久3)
【生地】常陸国
【実父】
【実母】
【略伝】
新選組の副長助勤。
1863(文久3)年、江戸で浪士組が結成された際、これに加わる。上洛後、浪士組結成の提案者清河八郎がこの浪士組を丸ごと尊王攘夷派組織に衣替えしようとしたため、幕府より危険視されて浪士組に江戸への帰還命令が出されると、これと袂を分かって芹沢鴨らとともに京都に残留し、京都守護職松平容保の下で壬生浪士組(後の新選組)を結成する。
隊内では芹沢派に属して副長助勤を務めるが、同年9月の芹沢一派の粛清に際してはその対象から除外され、芹沢派の幹部では唯一隊内に残ったが、同年末に切腹させられた。
【配役】