松平武元
生没 1719(享保4)?-1779(安永8)
生地
実父 松平頼明
実母 婉(林元房女)
別称 松平右近将監
略伝
常陸府中藩主松平頼明の四男。
1728(享保13)年、上野館林藩主松平武雅の急養子となってその家督を相続するが、直ちに陸奥棚倉へ移される。
その後、寺社奉行などを務め、1746(延享3)年に西の丸老中となって将軍家世子家治付となり、同年には館林に戻される。翌年には本丸老中に転じ、1764(明和元)年には老中首座となった。
1779(安永8)年7月、老中在職のまま没した。
配役
原田甲子郎 |
集団奉行所破り(1964・映画) |
外山高士(38) |
大奥(1968・KTV) |
あおい輝彦(22) |
徳川おんな絵巻(1970・KTV) |
金田龍之介(43) |
天下御免(1971・NHK) |
垂水悟郎(55) |
闇の傀儡師(1982・CX) |
青木義朗(62) |
若さま侍捕物帳(1991・ANB) |
香川照之(30) |
八代将軍吉宗(1995・NHK) |
丹波哲郎(75) |
風光る剣 八嶽党秘聞(1997・NHK) |
橋本じゅん(60) |
大奥 ohoku(2024・CX) |
石坂浩二(84) |
べらぼう 蔦重栄華乃夢噺(2025・NHK) |
松平武雅
生没 1703(元禄16)?-1728(享保13)
生地
実母 上月氏女
別称
略伝
松平義行の四男。
1724(享保9)年4月、上野館林藩主松平清武(徳川家宣の弟)の養子となり、同年9月の清武の死により家督を相続し、館林藩主となった。
配役
松平忠明
生没 1583(天正11)-1644(正保元)
生地 三河国
別称 奥平忠明
略伝
奥平信昌の四男。
1588(天正16)年に外祖父徳川家康の養子となって松平を称し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、奥平家の旧領三河作手で1万7000石を与えられる。
1615(元和元)年の大坂夏の陣で戦功を立て、戦後、大坂10万石を与えられて大坂の復興に尽力。1619(元和5)年に大和郡山12万石(このとき荒木又右衛門を召し抱える)、1639(寛永16)年には播磨姫路18万石に転じた。
配役
松平忠固
生没 1812(文化9)-1859(安政6)
生地 武蔵国
実父 酒井忠実
実母 西尾忠移女
別称 松平伊賀守、松平忠優
略伝
後の播磨姫路藩主酒井忠実の次男。
信濃上田藩主松平忠学の養子となり、1830(天保元)年、養父忠学の隠居により家督を相続し、上田藩主となる。
その後、寺社奉行や大坂城代などを務め、1848(嘉永元)年に老中に就任。1853(嘉永6)年、アメリカの使節ペリーが来航した際には、老中首座阿部正弘のもとで難局に対処し、翌年、日米和親条約を締結して開国に踏み切る。しかし、鎖国の継続を強く主張する徳川斉昭などの激しい反発を受け、翌1855(安政2)年8月、松平乗全とともに辞職した。
1857(安政4)年に再び老中に任ぜられ、翌年の日米修好通商条約の調印問題では、調印の勅許不要論を強硬に唱えて即時調印を主張し、老中首座堀田正睦の説得に成功。条約の締結にこぎつけたが、同年、堀田とともに老中職を退いた。
配役
片岡市童 |
建国史 尊王攘夷(1927・映画) |
瀬川路三郎(47) |
維新前夜(1941・東宝) |
横山文彦(38) |
鞍馬天狗 銀河の美女(1941・大都) |
伊達正三郎(25) |
弥次喜多珍道中 中仙道の巻(1960・新東宝) 役名は上田城主 |
杉山昌三九(55) |
桜田門(1961・大映) |
河村憲一郎(57) |
花の生涯(1963・NHK) |
蜷川幸雄(37) |
浮世絵女ねずみ小僧(第2部)(1972・CX) |
佐竹明夫(62) |
花の生涯(1988・TX) |
岸本 功(43) |
翔ぶが如く(1990・NHK) |
吾羽七朗(47) |
徳川慶喜(1998・NHK) |
松澤一之(53) |
篤姫(2008・NHK) |
山口眞司(54) |
龍馬伝(2010・NHK) |
河原崎建三(67) |
桜田門外ノ変(2010・東映) |
野添義弘(60) |
西郷どん(2018・NHK) |
加藤忠可(60) |
青天を衝け(2021・NHK) |
松平忠輝
生没 1592(文禄元)-1683(天和3)
生地 武蔵国
別称 辰千代
略伝
徳川家康の六男。
傅役皆川広照に養育される。後に長沢松平家の家督を継承し、武蔵深谷で1万石を与えられる。
1602(慶長7)年に下総佐倉5万石、翌年に信濃川中島14万石に転じ、1610(慶長15)年には北陸道の要衝越後春日山(福島)75万石を与えられるが、1615(元和元)年の大坂夏の陣で戦場に遅参するなどの不行跡が目立ったために家康の怒りを買い、1616(元和2)年、家康から勘当された上、改易される(正室に伊達政宗の長女五郎八を迎えていたため、家康が政宗の謀略を恐れて忠輝を冷遇したともいわれている)。
その後、配所を転々とするも長寿を保ち、兄徳川秀忠の孫に当たる将軍徳川綱吉時代の1683(天和3)年7月、赦免されぬまま配所の信濃諏訪に没した。
配役
河部五郎(52) |
まぼろし城(1940・映画) |
吉田柳児(41) |
日本剣客伝(柳生十兵衛)(1968・NET) |
石立鉄男(29) |
春の坂道(1971・NHK) |
田中 健(32) |
徳川家康(1983・NHK) |
真田広之(27) 岡田二三 |
独眼竜政宗(1987・NHK) |
松平 健(34)
島 英二(15) |
野風の笛(1987・NTV) |
横内 正(51) |
将軍家光忍び旅 II(1992・ANB) |
千葉真一(53) |
徳川無頼帳(1992・TX) |
鈴木浩介(24) |
影武者徳川家康(1998・ANB) |
阪本浩之(22) 山田一統(15)
岩渕幸弘(10) |
葵 徳川三代(2000・NHK) |
山田純大(33) |
天下騒乱 徳川三代の陰謀(2006・TX) |
鯨井康介(22) |
寧々 おんな太閤記(2009・TX) |
松平忠刻
生没 1718(享保3)-1782(天明2)
生地 武蔵国
実母 関口氏女
別称 松平下総守
略伝
松平忠雅の三男。
1746(延享3)年、父忠雅の死により家督を相続し、伊勢桑名藩主となる。
領内はしばしば木曽三川の洪水に見舞われて荒廃。1755(宝暦5)年に幕府の命を受けた薩摩藩による堤防工事が完成するが(この工事では多数の死者が出て薩摩藩では大きな問題となった)、状況は改善しなかった。
配役
松平忠敏
生没 1818(文化15)-1882(明治15)
生地 三河国
実父 松平親芳
実母 松平太郎左衛門養女?
別称 松平主税助、松平主税介、松平上総介
略伝
剣術に秀で、1856(安政3)年に幕府講武所教授方に就任。1862(文久2)年にはかねて懇意であった清河八郎の提言を受け、幕府に浪士組の結成を建言して容れられ、翌年の浪士組結成に際しては浪士取扱を命じられるが、浪士組の上洛前にこれを辞す。上洛した浪士組が江戸へ戻され、新たに新徴組が結成されると新徴組支配を務めた。
和歌にも通じていたことから、維新後は宮内省に出仕した。
配役
千代田秀一 |
貝殻一平(1929・松竹) |
長田芳川 |
貝殻一平 前篇(1929・帝キネ) |
河合菊三郎 |
貝殻一平 前篇(1929・河合) |
浅香新八郎(23) |
傘張剣法(1929・映画) |
小川 隆(39) |
貝殻一平(1930・日活) |
岡 譲司①(51) |
危うし!鞍馬天狗(1953・映画) |
岡 譲二②(51) |
逆襲!鞍馬天狗(1953・映画) |
原 健策①(50) |
御存じ快傑黒頭巾 危機一髪(1955・映画) |
江川宇礼雄(54) |
快傑修羅王(1956・映画) |
山形 勲(41) |
鞍馬天狗 御用盗異変(1956・映画) |
原 健策②(52) |
鞍馬天狗 御用盗異聞(1957・映画) |
御木本伸介(26) |
美男剣競録(1957・映画) |
進藤英太郎(61) |
危うし!!快傑黒頭巾(1960・東映) |
岡田英次(44) |
暗殺(1964・松竹) |
和崎俊也(29) |
鞍馬天狗(1967・MBS) |
小林重四郎(75) |
燃えて、散る 炎の剣士 沖田総司(1984・NTV) |
中尾 彬(48) |
必殺スペシャル・新春(横浜異人屋敷の決闘)(1990・ABC) |
藤木 孝(64) |
新選組!(2004・NHK) |
松平忠直
生没 1595(文禄4)-1650(慶安3)
生地 摂津国
略伝
結城秀康の長男。
1607(慶長12)年、父秀康の死により家督を相続し、越前北ノ庄城主となる。
1614(慶長19)年の大坂冬の陣では幕府方として大軍を率いて出陣したが、真田丸を強攻して真田幸村に翻弄され、祖父家康の不興を買ったという。翌年の夏の陣では、最終決戦となった天王寺・岡山の戦いで真田勢を潰滅させて幸村を討ち取るなどの活躍をみせ、家康に称賛された。
しかし、その後、不行跡が目立つようになったといわれ、江戸への参勤も滞るようになり、1622(元和8)年には家臣永見右衛門の母を妾に望み、これを断られたために永見母子を殺害した上、これを諌めた正室勝(叔父の将軍徳川秀忠の娘)をも手討ちにしようとしたという。
翌1623(元和9)年、こうした乱行を問題視した幕府により隠居を命じられ、豊後萩原へ移されて蟄居の身となり、1650(慶安3)年9月、赦免されぬまま配所に没した。
配役
大谷鬼若(38) |
越前騒動(1916・日活) |
片岡千恵蔵(27) |
忠直卿行状記(1930・日活) |
南条新太郎(21) |
龍虎日本晴(1938・映画) |
仲代達矢(26) |
忠直卿行状記(1958・NTV) |
8市川雷蔵(29)
木口和己 |
忠直卿行状記(1960・大映) |
仲谷 昇(32) |
忠直卿行状記(1961・NTV) |
佐々木功(29) |
春の坂道(1971・NHK) |
大竹修造(28) |
隠密剣士(1973・TBS) |
菅貫太郎(44) |
柳生一族の陰謀(1978・KTV) |
阪本良介(24) |
徳川家康(1983・NHK) |
正城慎太郎(24) |
真田太平記(1985・NHK) |
早川純一(51) |
風雲江戸城 怒涛の将軍徳川家光(1987・TX) |
宮川右京 |
姫将軍大あばれ(1995・TX) |
北 直樹(34) 梅沢勇太(11)
中林大樹(10) |
葵 徳川三代(2000・NHK) |
浪打賢吾 |
江 姫たちの戦国(2011・NHK) |
松平忠弘
生没 1631(寛永8)-1700(元禄13)
生地 大和国
実母 三好氏女
略伝
松平忠明の長男。
1644(正保元)年、父忠明の死により家督を相続し、播磨姫路藩主となるが、幼少であったために要衝姫路からの転封が取りざたされる。
1648(慶安元)年に山形に移され、その後、1668(寛文8)年に下野宇都宮、1681(天和元)年に陸奥白河と各地を転々とさせられた。
家臣団の対立を収められず、1692(元禄5)年に改易されるが、ほどなくして山形に再封された。
配役
宗方勝巳(46) |
水戸黄門(第14部)(1983・TBS) |
松平忠啓
生没 1746(延享3)-1786(天明6)
生地 武蔵国
実母 純性院(市原氏女)
別称 松平下総守
略伝
松平忠刻の次男。
1771(明和8)年、父忠刻の隠居により家督を相続し、伊勢桑名藩主となる。
城下町の大火や大洪水が相次いで藩財政が悪化する中、年貢の取立てをめぐって農民らの反発を招き、1782(天明2)年には領内で大規模な一揆が発生。1784(天明4)年には天明の大ききんに襲われ、領内は荒廃した。
配役
松平忠政
生没 1541(天文10)-1599(慶長4)
生地 三河国
略伝
徳川家康の異母兄。
家康に仕えたとされるが、その実在は疑問視されているともいう。
宮川陽介 |
徳川家康(1983・NHK) 役名は勘六 |
松平忠正
生没 1543(天文12)-1577(天正5)
生地
実父 松平家次
実母
略伝
三河品野城主の子に生まれる。
1547(天文16)年、竹千代(徳川家康)が人質として今川家へ送られる際、阿部徳千代(正勝)らとともにこれに付き従う。
1562(永禄5)年の家康の今川家からの独立後もこれに従い、1573(天正元)年の武田信玄による三河野田城攻撃に際しては城主菅沼定盈とともに籠城して抗戦するが、降伏して捕縛される。その後、人質交換により徳川家に帰参した。
配役
千葉重樹 |
徳川家康(1965・東映)
役名は松平与一郎/竹千代(家康)を織田方に奪われた際に切腹 |
柏木隆太(46) |
武田信玄(1988・NHK) |
松平忠昌
生没 1597(慶長2)-1645(正保2)
生地 摂津国
実母 清涼院(中川一茂女)
別称 虎松
略伝
結城秀康の次男。
1607(慶長12)年、上総姉崎で1万石を与えられる。1615(元和元)年の大坂夏の陣では幕府方に属して奮戦し、戦後、常陸下妻3万石に転じた。
翌1616(元和2)年には信濃川中島12万石、1618(元和4)年には越後高田25万石へと移封を繰り返し、1623(元和9)年、兄の越前北ノ庄藩主松平忠直が幕府に隠居を命じられると、その嫡男仙千代(光長)が幼少だったために、仙千代と交替で北ノ庄(後に福居と改称)に入り、50万石を領するに至った。
配役
松平忠雅
生没 1683(天和3)-1746(延享3)
生地 陸奥国
実父 松平清照
実母 安西意水女
略伝
松平忠弘の孫。
1692(元禄5)年、祖父忠弘の隠居により家督を相続し、山形藩主となる。
1700(元禄13)年に備後福山に転じるが、福山に初めて入ったのは1709(宝永6)年のことで、翌年には伊勢桑名に転封となった。
配役
片山右京(40) |
水戸黄門(第32部)(2003・TBS) |
松平忠吉
生没 1580(天正8)-1607(慶長12)
生地 遠江国
別称 福松
略伝
徳川家康の四男。
1590(天正18)年の家康の関東入りに際して、武蔵忍10万石を与えられる。
井伊直政の娘を正室を迎え、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、直政の後ろ盾を得て、先鋒福島正則を出し抜いて先駆けの功を得たが、合戦の終盤、戦場からの離脱を図った島津勢を追撃した際、その反撃を受けて負傷した。
戦後、尾張清洲城主となったが、1607(慶長12)年3月に江戸で没し、嗣子なく絶家となった。
配役
冨家規政(21)
岡田二三 |
徳川家康(1983・NHK) |
寺泉 憲(53) |
葵 徳川三代(2000・NHK) |
松田 岳(22) |
影武者徳川家康(2014・TX) |
吉村界人(24) |
関ヶ原(2017・東宝) |
眞野煌汰(10)
市村碧斗(5) |
どうする家康(2023・NHK) |
松平太郎
生没 1839(天保10)-1909(明治42)
生地
実父 松平九郎左衛門
実母
略伝
幕府に出仕し、奥右筆、外国奉行支配組頭などを経て、1868(明治元)年2月、陸軍奉行並となる。同年の幕府崩壊に際しては新政府への徹底抗戦を唱えて江戸を脱し、箱館に逃れ、五稜郭に拠って榎本武揚らともに新政府軍に抵抗するが、翌年5月に降伏し、東京で投獄された。
1872(明治5)年の赦免後は新政府に出仕したが、ほどなくして辞職。その後、さまざまな事業に手を出すも失敗し、晩年は落魄していたという。
配役
4沢村国太郎(49) |
快傑まぼろし頭巾(1954・東映) |
五十嵐市之助 |
快傑黒頭巾(1958・東映) |
国富 論 |
新選組血風録(1965・NET) |
原田甲子郎 |
五稜の星(1966・NHK) |
中田博久(27) |
燃えよ剣(1970・NET) |
藤岡 弘(42) |
五稜郭(1988・NTV) |
松平近韶
生没
生地
実父 松平徳之輔
実母
別称 松平式部少輔
略伝
幕府に出仕し、田安家家老や勘定奉行などを務める。
1860(万延元)年には一橋家家老となって一橋慶喜に仕えた。
配役
松平親俊
生没 ?-1581(天正9)
生地
実父 松平親次
実母 久松定俊女
略伝
松平広忠、徳川家康に仕える。
1581(天正9)年、遠江二俣城攻めの陣中で病死した。
配役
松平対馬守
生没 1715(正徳5)-1789(寛政元)
生地
実父 松平忠一
実母 松平忠充女
別称 松平忠郷
略伝
幕府に出仕し、御徒頭などを務め、1768(明和5)年に勘定奉行、1773(安永2)年には大目付となる。
大目付在職中の1784(天明4)年3月には、江戸城内で田沼意知に斬り付けた佐野政言を取り押さえる役割を演じた。
配役
嵐 璃徳(50) |
千代田刃傷(1925・帝キネ) |
村上幹夫(62) |
大江戸風雲伝(1994・NHK) |
松平輝貞
生没 1665(寛文5)-1747(延享4)
生地
実父 松平輝綱
別称 松平右京大夫、大河内輝貞
略伝
松平信綱の孫。
1691(元禄4)年に伯父の京都所司代松平信興の急養子となって家督を相続し、翌年には下野壬生藩主となる。
幼時より将軍徳川家綱・綱吉の側近くに仕え、特に綱吉に目をかけられ、1694(元禄7)年に1万石加増、その翌年には1万石の加増で上野高崎へ転じ、その後、さらに2万石の加増を受ける。綱吉没後の1710(宝永7)年に越後村上へ転封となるが、1717(享保2)年に高崎に再封。その後、将軍徳川吉宗に重用されて1730(享保15)年には老中格となった。
なお、綱吉の側衆であったため、終生「生類憐みの令」を固く守ったことで知られている。
配役